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 正月も間近にせまり、A子が市場に行こうと誘ってくれた。
 越谷の流通団地の中にある市場は私の大好きなところで、スーパーにはまだ出ていない季節の走りの魚や野菜がそこにはあった。私は季節を先取りした気分でいつも満足した。
 彼女は自転車で行くという。待ち合わせ場所も時間もきまった。
 気持ちがうきうきしてやたら嬉しくなり、年の暮で値引きしていた自転車を買った。
 初めて買った自分の自転車が気持ちをたかぶらせる。荷物のカゴもついている。
 小学生の時は父の自転車だった。中学二年生のとき東京に引っ越した後はずっとバスやタクシーを利用し、免許を持った十八才からは自分の車をつかった。
 新しい自転車は枯草のにおいのする冬の陽だまりを思い出させる。
 小学生のころ自転車で町まで本を買いに行った。月に一冊か二冊しか出ない少女小説はすぐに売り切れる。わたしは四,五日おきに本屋まで通った。
 一冊の本が自分のものになった日は、家まで帰るのが待ちきれずに、田んぼに積んだ稲わらに持たれて暗くなるまでそれを読んだ。
 彼女との約束の日、ハンドルを握り、道に出る。ちょっとドキドキしながらペタルを踏む。広い道に出る。信号もある。右に曲がり、信号を二つ過ぎればもう市場だ。と、そこに三十センチくらいの泥の塊のようなものがある。それを避けようとするが、右にも左にも自転車がいる。止まろうと思いブレーキを探した。が、ない。私はその塊にぶつかり転んだ。転ぶときに、信号のそばにある弁当屋の黄色い看板が大きく迫ってきた。
 地面にたたきつけられたが、顔があげられない。停止線で止まっている車の窓が開く。「大丈夫ですか!?」でも、少しも痛さは感じなかった。
 信号が変わるので、起き上がった。恥ずかしくて、市場と反対方向に歩いていた。
 あの時、私は足でブレーキを探した。が、自転車のブレーキは足ではなかった。
 ころんだのは仕方のないことだったのだ。自らころぶ車とかいて自転車と読むのだから。

林 美江